「中小企業の元気を,日本の元気に,日本経済を支える中小新興企業を応援します」. これが,日本振興銀行のキャッチフレーズだった. だが,2010年9月10日(金)に,2010年9月期の中間決算で約1804億円の大幅な債務超過に陥る見通しとなったため,金融庁に申請をし,事実上の経営破綻(はたん)となった. 2010年3月末時点で約6194億7100万円と,巨額負債額となっている. 2010年8月に銀行法違反の罪で木村剛が起訴され,金融庁や預金保険機構による破綻へのシナリオが始まったと言われていた.
▼船橋市本町7丁目の日本振興銀行船橋店. 全国に114店舗を展開していた.
2002年9月30日,小泉純一郎政権時に,竹中平蔵は金融担当大臣に就任した. そのブレーンが日本銀行出身の木村剛だった. 2003年2月におこなわれた東京青年会議所の例会で,木村剛が「20億円集めればすぐにでも銀行をつくれる」と発言したことがきっかけとなって,ノンバンクオレガの落合伸治が20億円を用意することで,2003年4月銀行設立の準備会社中小新興企業融資企画(株)が設置された. 2004年4月本免許を取得し,4月21日に日本振興銀行は開業したのだった. 新銀行開業としては,異例の速さだった.
日本振興銀行は,メガバンクの10倍もの高金利を武器に預金量は増えていったが,当初の中小企業への融資はほとんどやる気がなかった. そればかりか,木村剛は銀行を私物化し,妻などの親族会社に不可解な融資を続ける. その後,商工ローン大手SFCG(旧,商工ファンド)などからの,債権買い取りビジネスに手を染め,破綻への道をたどる. 今回の,日本振興銀行破綻後,竹中平蔵はマスコミから逃げ回って雲隠れしている.
▼船橋市本町7丁目の日本振興銀行船橋店. 全国に114店舗を展開していた.
2002年9月30日,小泉純一郎政権時に,竹中平蔵は金融担当大臣に就任した. そのブレーンが日本銀行出身の木村剛だった. 2003年2月におこなわれた東京青年会議所の例会で,木村剛が「20億円集めればすぐにでも銀行をつくれる」と発言したことがきっかけとなって,ノンバンクオレガの落合伸治が20億円を用意することで,2003年4月銀行設立の準備会社中小新興企業融資企画(株)が設置された. 2004年4月本免許を取得し,4月21日に日本振興銀行は開業したのだった. 新銀行開業としては,異例の速さだった.
日本振興銀行は,メガバンクの10倍もの高金利を武器に預金量は増えていったが,当初の中小企業への融資はほとんどやる気がなかった. そればかりか,木村剛は銀行を私物化し,妻などの親族会社に不可解な融資を続ける. その後,商工ローン大手SFCG(旧,商工ファンド)などからの,債権買い取りビジネスに手を染め,破綻への道をたどる. 今回の,日本振興銀行破綻後,竹中平蔵はマスコミから逃げ回って雲隠れしている.